『何によって憶えられたいか』
私が十三歳のとき、
宗教の先生が、
「何によって憶えられたいかね」と聞いた。
誰も答えられなかった。
すると、
今答えられると思って聞いたわけではない。
でも五〇になっても答えられなければ、
人生を無駄に過ごしたことになるよといった。
「何によって憶えられたいか」
という問いは、
自分が向かう方向を定めるために、
絶対に忘れてはならない問いかもしれません。
時間は有限です。
その限りある時間を、
さまざまなことに分散してしまうと、
結局、何も達成できず、
「人生を無駄にしたことになる」
のかもしれません。
誰でも何らかの「目標」を立てていると思います。
ただ、その目標は、必ずしも「自分の目標」ではないかもしれません。
世の中の価値観、考え方に少なからず影響を受けているのではないかと思います。
「自分の目標」でなければ、
困難に直面した時に、
それを乗り越える力が湧き上がってこないのではないかと思います。
どんなことがあっても乗り越える力を獲得するためには、
「自分の目標」でなければならず、
「何によって憶えられたいか」
という問いは、
「自分の目標」を明らかにする「究極の問い」ではないかと思います。
「何によって憶えられたいか」
と問いを立て、
その答えを「目標」として定め、
その目標達成のために、
日々の行動を集中していく。
そうすれば、毎日着実に目標に近づいていくことができる
のではないかと思います。